いかなる場合にも、他人の心を消極的にするがごとき言行は絶対になすべきではない。中村天風
☆彡今日の一日一話 他人を消極的にさせない
いかなる場合にも、他人の心を消極的にするがごとき言行は絶対になすべきではない。
特に病に侵されている人や、
運命に悩まされている人はよほどの修養のできている人でない限り、
おおむねその心が消極的になっているのが普通の傾向であるから、
その種の人々には一段とその心を積極化するためへの努力を、
真実の人類愛をもって働き掛けないといけない。
以上は中村天風著 「一日一話」より一部抜粋&加筆
★中村天風
中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)は大日本帝国陸軍の諜報員、日本の実業家、思想家、ヨーガ行者、自己啓発講演家。天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村 三郎(なかむら さぶろう)。
来歴
「玄洋社の豹」
1876年(明治9年)、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として豊島郡王子村(現東京都北区王子)で出生。
父祐興は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。王子村や本郷で幼少を過ごした後、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。また立花家伝の六歳の時より家伝の随変流の修業を始める。随変流は立花宗茂を流祖とし戦国時代に成立した流派で、剣術と抜刀術をもつ。天風は後に随変流を極めることとなる。ちなみに、「天風」という号は天風が最も得意とした随変流抜刀術の「天風」(あまつかぜ)という型からとられたものである。
幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能となり、また柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で出刃包丁を抜いて飛びかかってきた生徒を刺殺してしまう。この件で正当防衛は認められたものの、修猷館を退学となった。その後、1892年(明治25年)に玄洋社の頭山満のもとに預けられる 。
天風は玄洋社で頭角を現し、気性の荒さから「玄洋社の豹」と恐れられた。16歳の時に頭山満の紹介で帝国陸軍の軍事探偵(諜報員)となり満州へ赴き、大連から遼東半島に潜入し錦州城、九連城の偵察を行う。
日露戦争が迫った1902年(明治35年)には再度満州に潜入し、松花江の鉄橋を爆破したり、仕込杖で青竜刀を持った馬賊と斬り合いを演じるなどの活躍を見せ「人斬り天風」と呼ばれたという。1904年(明治37年)3月21日にはコサック兵に囚われ、銃殺刑に処せられるところであったが、すんでのところで部下に救出された 。その後天風は様々な危険を乗り越え、無事目的地の大連に到着した。日露戦争に備えて参謀本部が放った軍事探偵は合わせて113名いたが、そのうち生きて大連に到着したのはわずか9名であった。
求道の日々
戦後は帝国陸軍で高等通訳官を務めていたが、1906年(明治39年)に奔馬性(結核の症例の中で、急速に症状が進むもの。現代では「急速進展例」と呼ばれる)の肺結核を発病。北里柴三郎の治療を受けたものの病状は思わしくなかった。
その後1909年(明治42年)にキリスト教の異端的潮流ニューソートの作家オリソン・スウェット・マーデン(英語版)の『如何にして希望を達し得るか』を読んで感銘を受け、病気のために弱くなった心を強くする方法を求めて、アメリカへ渡る決意をする。しかし、結核患者には渡航許可が下りなかったため、親交のあった孫文の親類に成りすまして密航する。
アメリカに渡った天風は、マーデンを訪ねたが、あまり相手にされず願いは果たせなかった。その後、親戚筋にあたり、当時アメリカ公使館に勤めていた芳澤謙吉の勧めで、哲学者のカーリントン博士に面会したのち、華僑の学生に代わって授業に出席したのをきっかけにコロンビア大学に入学し、自らの病の原因を尋ねて自律神経系の研究を行ったとされる。ヨーロッパではイギリスでアデントン・ブリュース(英語版)博士に面会したのち、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候したり、ドイツでハンス・ドリーシュと面会するなど数々の著名人を訪ねたとされるが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかったという。
こうして天風は、1911年5月25日に日本への帰路に就くが、その途中経由地であったアレキサンドリアにてインドのヨーガの聖人であるカリアッパ師と邂逅し、そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰カンチェンジュンガ山麓にあるゴーク村で2年半修行を行ったとされる。この修行を通じて結核は治癒し、さらに悟りを得るに至ったという。
1913年にインドを立ち日本へ向かうが、その途上で孫文の起こした第2次辛亥革命に関わり、「中華民国最高顧問」として協力。革命は挫折したものの、その謝礼として財産を得た。
実業界、そして導師へ
帰国後は時事新報の記者を務め、実業界に転身すると東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任し実業界で活躍していたが、1919年(大正8年)5月末のある日、頭山に代わって講演を行っている最中に突然感じるところがあり、頭山に相談した上で一週間の間に職を辞し、財産を処分して6月8日に「統一哲医学会」を創設。街頭にて心身統一法を説き始める。
その後、本部を芝公園内においた。
その後統一哲医学会は発展し、政財界の実力者も数多く入会するようになった。1940年(昭和15年)には「統一哲医学会」を「天風会」に改称。1962年(昭和37年)3月には国の認可により「財団法人天風会」となった。1968年(昭和43年)12月1日に天風は92歳でこの世を去った。墓所は東京都文京区大塚の護国寺にある。2011年(平成23年)には内閣府認定の公益財団法人に移行した。
◆教え
クンバハカ: 瓶に水を満たした状態という意味。肛門を締めて、肩の力を抜き肩を下げ、下腹に力を充実させる体勢。
潜在力の発揮
◆天風会
中村天風が創始した「天風会」は本部を東京都文京区大塚に置き、天風の「心身統一法」などを学ぶ講習会・セミナー、身体運動を伴った呼吸法・体操法・坐禅法を学ぶ行修会などを開催している。 日本各地に支部(賛助会)があり、海外にもハワイなどに支部がある。
◆主な著書
真人生の探究(財団法人天風会)1947年
研心抄(財団法人天風会)1948年
錬身抄(財団法人天風会)1949年
成功の実現(日本経営合理化協会)ISBN 4930838541
盛大な人生(日本経営合理化協会)ISBN 4930838592
心に成功の炎を(日本経営合理化協会)ISBN 4930838800
運命を拓く(講談社文庫) ISBN 4062637391
哲人哲語(財団法人天風会)
安定打坐考抄(財団法人天風会)
叡智のひびき - 天風哲人箴言註釈 (講談社)ISBN 4062076950
真理のひびき - 天風哲人新箴言註釈 (講談社) ISBN 4062082632
いつまでも若々しく生きる(日本経営合理化協会)ISBN 4930838975
君に成功を贈る(日本経営合理化協会)ISBN 4891010207
天風先生座談(宇野千代著 中村天風・述)(廣済堂出版)ISBN 9784331650233 ISBN 978-4331654248
中村天風の生きる手本—世界でいちばん価値ある「贈り物」(宇野千代著 中村天風・述)知的生きかた文庫(三笠書房)ISBN 978-4837976158
中村天風 成功哲学三部作・講演CD付(日本経営合理化協会) ISBN 9784891012281
今日の一日一話 「人間の死というもの」中村天風、「雪解けの山の斜面を埋めて咲くカタクリの花そよぎ止まざり」鳥海昭子
3月29日 今日の一日一話 「人間の死というもの」
たった一つの、宇宙の根本が産み出したものが、神羅万象である。
したがって、一切の神羅万象と称するものは
宇宙根本のエネルギーの分派によって作られている。
形が、つまり目の前にあるというのは、
宇宙根本の力が、まだこもっているからであり、
その力が抜けてしまえば、形を現象界から消して、
根本要素に還元しなければならない。
人間の死というのも、そういうことなのである。
以上は 中村天風著 一日一話より
「雪解けの山の斜面を埋めて咲くカタクリの花そよぎ止まざり」鳥海昭子
雪が解けたばかりの日当たりのいい山の斜面いっぱいに、
カタクリが咲いていました。
まだ葉を出さない木々の上からそぞぐ光と、
斜面を撫でて上がっていく風の柔らかさを感じます。
誕生日の花と短歌365日より
3月25日一日一話 美しさと調和 中村天風 今日の一句 連翹の一枝づつの花ざかり 星野立子
☆彡今日の一日一話
美しさと調和
絶対調和の状態こそ、美と言うものの本当の姿なので、
調和の無いところに完全の無いのと同様に、
調和の無いところに本当の美はないのである。
もっと極言すれば美しいという言葉は、
しっくりと調和しているという言葉の代名詞で、
さらに美しいというのは完全だということにもなるである。
どんな思想でも主義でも又計画でも設計でも、
調和を無視し没却された考慮では、
到底その完成は現実化されないのが当然の心理なのである。
以上は 中村天風著 一日一話より
☆彡3月25日の誕生花
➀つる性植物 ブドウ、朝顔、時計草、やまふじ、アイヴィ、ホップ
花言葉は美しさ
② 連翹(仲春) 花言葉は達せられた希望、情け深い
☆彡今日の一句
「連翹(レンギョウ)の一枝づつの花ざかり」 星野立子(ほしのたつこ)
連翹はすっと伸びた枝ごとに、黄色の花をびっしりとつける。
「一枝づつ」でその咲きようを言い留めた。
★星野立子プロフィール
星野 立子(ほしの たつこ、1903年(明治36年)11月15日 - 1984年(昭和59年)3月3日)は、昭和期の俳人。高浜虚子の次女。虚子に師事し、初の女性主宰誌『玉藻』を創刊・主宰した。虚子一族で特に評価の高い人物。女性俳人では同時期に活躍した中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女とともに四Tと称された。
経歴
東京府麹町区富士見町(現・東京都千代田区)に生まれる。父高浜虚子、母いとの次女。7歳のとき鎌倉に移る。1924年、東京女子大学高等学部卒業。1925年に作家で『文学界』主宰星野天知の息子、鎌倉彫職人の星野吉人と結婚、『ホトトギス』発行所および文化学院に就職する。1926年3月、虚子の薦めで作句をはじめる。1930年2月、長女早子(のちの星野椿)誕生。6月、虚子の慫慂により、初の女性による主宰誌『玉藻』を創刊する。1932年、『ホトトギス』同人。
1953年、3月から2か月半にわたり北米・ブラジルを訪れる。1956年4月、政府文化使節としてインド・ヨーロッパを1か月間訪問する。1959年4月、虚子の死没により朝日俳壇選者を継承する。1969年4月、妹の高木晴子とともにふたたび北米・ブラジルを訪れる。1970年10月、脳血栓により倒れ、翌年3月まで入院する。このため1983年7月まで晴子が『玉藻』の代選をした。1975年、勲四等宝冠章受章。1984年3月3日、直腸癌により死去。鎌倉の寿福寺に葬られ、「雛飾りつゝふと命惜しきかな」自筆句碑もここに建てられている。
2001年、ゆかりの鎌倉市二階堂に鎌倉虚子立子記念館が開館した。
2012年、上廣倫理財団により立子の名を冠した星野立子賞が設立された。
作品
昃(ひかげ)れば春水の心あともどり
ままごとの飯もおさいも土筆かな
囀をこぼさじと抱く大樹かな
朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ
父がつけしわが名立子や月を仰ぐ
しんしんと寒さがたのし歩みゆく
美しき緑走れり夏料理
雛飾りつゝふと命惜しきかな
などが代表句であり、明るく伸びやかな感性の日常詠を特色とする。
立子は自ら進んで認めたように、虚子の唱える客観写生、花鳥諷詠の忠実な実践者であった。虚子は自身の子女のなかで句作を「私の方から勧めたのは、星野立子一人である」(『晴子句集』序文)と書いており、また『立子句集』(1937年)の序文では「自然の姿をやはらかい心持で受け取ったまゝに諷詠するといふことは立子の句に接してはじめて之ある哉といふ感じがした。写生といふ道をたどつて来た私はさらに写生の道を立子の句から教はつた感じる」と高く評価した。
山本健吉は「朴の葉の」の句を評して、「ありふれた日常語の使用や、口語的な発想は、立子の句の一つの特徴をなすもので、虚子の句が持っている即興詩的側面を、立子は承けついでいると言えよう」と書いている[4]。後年は主観的、心理的な要素を加えるようになり、虚子は昭和10年頃からの立子の句について、それまでの「明るい鏡に写しとつたやうな景色を写生した句」が「作者の感情に動くままに景色を描くといつた句になつて来た」(「玉藻」1925年11月号)と評している。
句集
立子句集(玉藻社、1937年)
続立子句集 第一(青柿堂、1947年)
続立子句集 第二(同上)
笹目(七洋社、1950年)
実生(玉藻社、1957年)
春雷(東京美術、1969年)
句日記Ⅰ(同上、1973年)
句日記Ⅱ(同上、1974年)
露の世(玉藻社、1985年)
その他
玉藻俳話(六興出版部、1943年)
俳小屋(宝文館、1958年)
虚子一日一句(朝日新聞社、1965年)
大和の石仏(淡交社、1965年)
全集
星野立子全集(全六巻、梅里書房、1998年‐)
今日の一日一話「進化と向上」中村天風 &今日の一句「たそがれてあふれてしだれざくらかな」黒田杏子
☆彡今日の一日一話
進化と向上
人生というものは、健康難や運命難と闘う世界ではない。
健康難や運命難を超越せる進化と向上という宇宙本来の目的に順応することを、
その全生命の使命とすべき貴重な世界なのである。
以上は 中村天風著 一日一話より一部抜粋
☆彡3月19日の誕生花しだれざくら 花言葉は優美
☆彡今日の一句
「たそがれてあふれてしだれざくらかな」黒田杏子
夕暮れ時、咲き満ちたシダレザクラから、花の命があふれ出すようだ。
ひらがな表記の視覚効果が味わいを添える。
枝垂桜(仲春)
★黒田杏子
黒田 杏子(くろだ ももこ、1938年(昭和13年)8月10日 - )は、俳人。東京市本郷生まれ。父は開業医。1944年栃木県に疎開、高校卒業まで栃木県内で過ごす。東京女子大学入学と同時に俳句研究会「白塔会」に入り、山口青邨の指導を受け、青邨主宰の「夏草」に入会。
同大学文理学部心理学科卒業後、博報堂に入社。テレビ、ラジオ局プランナー、雑誌『広告』編集長などを務め、瀬戸内寂聴、梅原猛、山口昌男など多数の著名文化人と親交を持つ。この間、10年ほど作句を中断。1970年、青邨に再入門。青邨没後、1990年俳誌「藍生」(あおい)を創刊、主宰。
代表句に「白葱のひかりの棒をいま刻む」「一の橋二の橋ほたるふぶきけり」など。「季語の現場人」と自ら名付けた姿勢を作句の基本とし、平明な表現で季語を生かす句風を特徴とする。結社活動も含め俳人として精力的な活動を行っており、おかっぱ頭、モンペ姿のトレードマークで親しまれている。
女流では宇多喜代子らと並び称される存在である。また句作を再開した1970年から同時に「日本列島桜花巡礼」を発心、30年かけて全国の桜を巡り「桜」の俳人としても知られる。日本経済新聞俳壇選者。
受賞歴
1975年:夏草新人賞
1986年:夏草賞
1982年:句集『木の椅子』により現代俳句女流賞および第5回俳人協会新人賞
1995年:句集『一木一草』により俳人協会賞
2008年:第1回桂信子賞
2011年:句集『日光月光』により第45回蛇笏賞
句集
第一句集『木の椅子』 牧羊社、1981年
第二句集『水の扉』 牧羊社、1983年 のち邑書林句集文庫、1997年
第三句集『一木一草』花神社、1995年
第四句集『花下草上』角川書店、2005年
『黒田杏子句集成』角川書店 2007
第五句集『日光月光』角川学芸出版、2010年
第六句集『銀河山河』角川学芸出版、2013年
剣の極意は「変機に処する以外には、いたずらに力をいれぬこと」"臨機応変" 中村天風
☆彡今日の一日一話
「臨機応変」
世の中を見てみるに、その日々の生活を行う際、
「力」の使い方を考えないため、「力」を働かさず
「ちから」のみを入れるという「ちから」の無駄遣いをしている傾向がある。
剣の極意は「変機に処する以外には、いたずらに力をいれぬこと」である。
これが臨機応変の要訣である。
人生生活を完成する命の使い方もこれ以外にない。
中村天風 一日一話より
☆彡今日の一句
「残雪やごうごうと吹く松の風」 村上鬼城(むらかみきじょう)
残雪(仲春)
残雪は春になっても解けずに残る雪。
ざんせつをいただく山々遠景に、松林に吹き付ける荒々しい春のかぜを詠む。
☆彡誕生花はイワウチワ 花言葉は春の使者
昔の自分と今の自分を本質的に考えると、どこででも変わっていません・・・。中村天風
☆彡今日の一日一話
男は少年時代、娘さんたちは少女時代、そして赤ん坊時代。
その時分に、自分というものを考えた自己意識と、
今日、只今自分を考えている自己意識と比較して、
じいっと考えてみな。
すぐにわかることは知識や肉体の発達が、
まことに別人のごとくにも感じられはするけれども、
いま一歩深く突き進んで自分というものを本質的に考えると、
どこででも変わっていません。
変わったのは、あなた方の心や体だけじゃないか。
以上は 中村天風著 元気と勇気がわいてくる哲人の教え366話一日一話より一部抜粋
☆彡今日の一句
「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」 正岡子規
「暑さ寒さも彼岸まで」と言うが彼岸の入りは意外に寒い。
「母の詞自ら句になりて」と題がある。彼岸(仲春)
☆彡誕生花
クサボケ (シドミ) 花言葉は一目ぼれ
「願わくば今日一日のゆとりあれ朝の陽うけてクサボケ咲けり」鳥海昭子
ボケに似ていますが小さな木なので、名前に「草」が付いたのかもしれません。
せわしい毎日ですが、朝日を浴びたボケを見ると何か心にゆとりができたように感じました。
鳥海昭子 誕生日の花と短歌365日より一部抜粋
今日の一日一話「睡眠は精力復活の恵み」中村天風
高知地方気象台は3月15日、全国に先駆け、高知市で桜(ソメイヨシノ)が開花したと発表した。
いよいよ恋い焦がれる春の到来です。2018年桜前線スタート!
☆彡3月16日 今日の一日一話
「睡眠は精力復活の恵み」
特に就寝前には、心痛、憤怒煩悩、悲観と言うような、
かりそめにも心を暗くするが如き消極的の思考は
断然心に抱かしめぬよう、努めて習慣付けなければならない。
要するに睡眠という自然の与えてくれた精力復活の恵まれたときに、
本当に親しむのには、落ち着いた楽々とのんびりした気分が最も肝要なのである。
以上は 中村天風著 一日一話元気と勇気がわいてくる哲人の教え366話より一部抜粋
☆彡今日の俳句
「垂れ髪に雪をちりばめ卒業す」
卒業式を終えた生徒のまっすぐ垂らした黒髪に春の雪がふわりとかかっている。
祝福するような清らかな雪である。 卒業(仲春)
西東三鬼(さいとうさんき)
ラジオ深夜便誕生日の花ときょうの一句 第2集 (ステラMOOK)
- 作者: NHKサービスセンター
- 出版社/メーカー: NHKサービスセンター
- 発売日: 2011/03/19
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以上は 「ラジオ深夜便誕生日の花ときょうの一句」第2集より一部抜粋
★中村天風
中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)は日本の思想家、実業家。日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村 三郎(なかむら さぶろう)。
1876年(明治9年)、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として豊島郡王子村(現東京都北区王子)で出生。父祐興は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。王子村や本郷で幼少を過ごした後、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。
また立花家伝の六歳の時より家伝の随変流の修業を始める。随変流は立花宗茂を流祖とし戦国時代に成立した流派で、剣術と抜刀術をもつ。天風は後に随変流を極めることとなる。ちなみに、「天風」という号は天風が最も得意とした随変流抜刀術の「天風」(あまつかぜ)という型からとられたものである。
幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能となり、また柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で出刃包丁を抜いて飛びかかってきた生徒を刺殺してしまう。この件で正当防衛は認められたものの、修猷館を退学となった。その後、1892年(明治25年)に玄洋社の頭山満のもとに預けられる 。
天風は玄洋社で頭角を現し、気性の荒さから「玄洋社の豹」と恐れられた。16歳の時に頭山満の紹介で帝国陸軍の軍事探偵(諜報員)となり満州へ赴き、大連から遼東半島に潜入し錦州城、九連城の偵察を行う。
日露戦争が迫った1902年(明治35年)には再度満州に潜入し、松花江の鉄橋を爆破したり、仕込杖で青竜刀を持った馬賊と斬り合いを演じるなどの活躍を見せ「人斬り天風」と呼ばれたという。1904年(明治37年)3月21日にはコサック兵に囚われ、銃殺刑に処せられるところであったが、すんでのところで部下に救出された 。その後天風は様々な危険を乗り越え、無事目的地の大連に到着した。日露戦争に備えて参謀本部が放った軍事探偵は合わせて113名いたが、そのうち生きて大連に到着したのはわずか9名であった。
戦後は帝国陸軍で高等通訳官を務めていたが、1906年(明治39年)に奔馬性(結核の症例の中で、急速に症状が進むもの。現代では「急速進展例」と呼ばれる)の肺結核を発病。北里柴三郎の治療を受けたものの病状は思わしくなかった。
その後1909年(明治42年)に作家オリソン・スウェット・マーデン(en:Orison Swett Marden)の『如何にして希望を達し得るか』を読んで感銘を受け、病気のために弱くなった心を強くする方法を求めて、アメリカへ渡る決意をする。しかし、結核患者には渡航許可が下りなかったため、親交のあった孫文の親類に成りすまして密航する。
アメリカに渡った天風は、マーデンを訪ねたが、あまり相手にされず願いは果たせなかった。その後、親戚筋にあたり、当時アメリカ公使館に勤めていた芳澤謙吉の勧めで、哲学者のカーリントン博士に面会したのち、華僑の学生に代わって授業に出席したのをきっかけにコロンビア大学に入学し、自らの病の原因を尋ねて自律神経系の研究を行ったとされる。
ヨーロッパではイギリスでH・アデントン・ブリュース博士(en:Addington Bruce)に面会したのち、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候したり、ドイツでハンス・ドリーシュと面会するなど数々の著名人を訪ねるが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった。
こうして天風は、1911年5月25日に日本への帰路に就くが、その途中経由地であったアレキサンドリアにてインドのヨーガの聖人であるカリアッパ師と邂逅。
そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰カンチェンジュンガ山麓にあるゴーク村で2年半修行を行う。この修行を通じて結核はすっかり治癒し、さらに悟りを得るに至った。
1913年にインドを立ち日本へ向かうが、その途上で孫文の起こした第2次辛亥革命に巻き込まれ、そのまま「中華民国最高顧問」として協力。革命は挫折したものの、その謝礼として財産を得た。
帰国後は時事新報の記者を務め、実業界に転身すると東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任し実業界で活躍していたが、1919年(大正8年)5月末のある日、頭山に代わって講演を行っている最中に突然感じるところがあり、頭山に相談した上で一週間の間に一切の社会的身分、財産を処分して6月8日に「統一哲医学会」を創設。街頭にて心身統一法を説き始める。その後、本部を芝公園内においた。
その後統一哲医学会は発展し、政財界の実力者も数多く入会するようになった。1940年(昭和15年)には「統一哲医学会」を「天風会」に改称。1962年(昭和37年)3月には国の認可により「財団法人天風会」となった。1968年(昭和43年)12月1日に天風は92歳でこの世を去った。墓所は東京都文京区大塚の護国寺にある。2011年(平成23年)には内閣府認定の公益財団法人に移行した。
中村天風の精神哲学は日本におけるニューエイジの先駆者ともいわれる。
主な著書
真人生の探究(財団法人天風会)1947年
研心抄(財団法人天風会)1948年
錬身抄(財団法人天風会)1949年
成功の実現(日本経営合理化協会)
盛大な人生(日本経営合理化協会)
心に成功の炎を(日本経営合理化協会)
運命を拓く(講談社文庫)
哲人哲語(財団法人天風会)
安定打坐考抄(財団法人天風会)
叡智のひびき - 天風哲人箴言註釈 (講談社)
真理のひびき - 天風哲人新箴言註釈 (講談社)
いつまでも若々しく生きる(日本経営合理化協会)
君に成功を贈る(日本経営合理化協会)
天風先生座談(宇野千代著 中村天風・述)(廣済堂出版)
中村天風の生きる手本—世界でいちばん価値ある「贈り物」(宇野千代著 中村天風・述)知的生きかた文庫(三笠書房)
中村天風 成功哲学三部作・講演CD付(日本経営合理化協会)